学びろぐ

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『ゴッホから学ぶ、名作を生むための三つの要素』



今週のお題「名作」

 

この世の中には名作がたくさんあります。

 

映画、絵画、ドラマ、アート、アニメ、ゲーム、近年では個人が作る動画までも名作になります。

 

名作というより「バズった」という表現が正しいでしょうか?

 

現代では文明が進み、情報の交通網が著しく発展した経緯もあり、名作に触れる機会に恵まれている時代です。

 

ネット社会が到来したことにより、娯楽の質と量が格段に増大しました。

例えば「ネトフリ」 。ありとあらゆるジャンルの作品に触れることができ、名作と言われるものがそこには溢れています。

 

しかし無数の作品に対して、私たち個人が所有する時間が全く足りてません。

 

 

悲しいですね‥‥‥

 

 

娯楽が映画くらいしか無かった時代は、何日も前から予定を立てて、映画館へ向かう途中で、「どんな映画なんだろう?」と胸を弾ませ会話をしたのでしょうか。

 

そこには暖かいストーリが生まれていたような気がします。

 

今では、スマホを開けば動画やフォト、上質な物語に容易に触れることができます。

 

家で寝転びながら観るアニメや映画も最高ですが、作品に対する重みが軽くなっているのでは?

いつでもどこでも食べれる、安いファーストフードのようになってしまったのでは?

 

そんな印象も受けますが、悪い事ばかりではありません。

 

近年では生産過程に目まぐるしい進化が見られ、名作と言われるものが加速度的に生産され続けています。

 

古き良き時代の作品も良いですが、「確かな面白さ」が詰まった良い作品が生産され続けているのが事実です。

 

それもこの時代ならではの情報展開力やテクノロジーの恩恵なのでしょう。

 

新作のアニメやドラマ、映画、面白いものだらけで私は幸せです。

そして改めて言いますが‥‥‥全く時間が足りません。

 

鬼滅の刃」「進撃の巨人」は私の中では名作に入ります。

この2作ですが‥‥‥わたくし個人、正直、原作漫画の方ははあまり面白いとは思えませんでした。

 

しかしアニメ化がされた途端に、作品に釘付けになった覚えがあります。

 

もちろん漫画の段階でも十分に面白いものであるからこそ、アニメ化となったのでしょう。

ですが、私にとっては物語の構成よりも、流れるような緻密なバトル描写、美しいエフェクトなどのアニメーションに感動を覚えました。

 

進撃の巨人」の立体起動での描写は圧巻です。

リバイ兵長にドキドキです。

 

漫画家と編集者が練りにねって作り上げた作品。

そこに素晴らしいアニメーションが加わり、アフレコによりキャラクターに命が宿り、さまざまな技術、努力が結晶となりこれらのアニメは名作となったのだと感じます。

 

さらには作品をいかに売るか。営業マンの努力もそこにはあったでしょう。

 

名作とはどのようにして生まれてくるのか。

名作の背景には時代背景、経済、それらに渦巻くさまざまな人間ドラマが隠されていると感じました。

 

そこで今回は私が好きな画家の「ゴッホ」に焦点を当てて、いかにゴッホは名作を作り出したのかを追求していきたいと思います。

 

 

 

ゴッホのプロフィール

 

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年にオランダで生まれた後期印象派の画家です。彼の作品は、鮮やかな色彩と感情的な深み、独特の筆使いで知られています。特に「ひまわり」や「星月夜」などの絵画は世界中で非常に有名です。ゴッホは生涯において精神的な苦悩を経験しながらも、約10年間の短いキャリアで800以上の油絵と700以上の素描を残しました。彼の作品は、感情表現の強さと画面構成の革新性で後の表現主義などの美術運動に大きな影響を与えました。死後、彼の芸術は世界中で評価されるようになり、現代でも最も人気のある画家の一人です。

 

なぜゴッホは名作となったのか

 

その要因を以下の3つのポイントに絞って言及していきます。

 

 

  1. 革新的な技法とスタイル 
  2. 彼の人生とその物語  
  3. ヨハンナ・ヴァン・ゴッホ=ボンゲルによる普及努力

 

 

革新的な技法とスタイル

 

ゴッホは知らない人がいないくらい有名な画家ですよね。代表作は「ひまわり」でしょうか。

 

彼が描くその絵は、力強く独特で、芸術に興味を持たない人でも印象に残っているのではないでしょうか。

 

そんなゴッホはどこで絵を学んだのでしょう。

実はほとんどの技術を独学で身につけています。 

驚きですよね。

 

そして彼は日本芸術に強く関心を持ち、660枚もの浮世絵を買い漁ったといいます。

 

この時代、フランスでは日本のアートが流行っていた事もあり、印象派と言われる代表的な画家「モネ」や「ルノワール」も日本アートの影響を強く受けていたといいます。

 

日本人として誇りに思いますよね。

 

ゴッホの作品には、浮世絵をそのまま模写したような作品も残っているので面白いですよ。

 

彼は10年という短い期間に約2,000程の作品を残しています。

一年で200作品 二日で1つの作品を作り上げるペース‥‥そんなに描けるものなのでしょうか?

 

作品に向き合う姿勢はアーティストそのもの。絵に対する情熱は本物でしょう。

 

そんな異文化からの強い影響や、作品に対する強い愛情とも言える情熱こそが、数々の名作を生み出す由来となったのでしょう。

 

そして、「ゴッホ」の人生にこそ「印象」という強いカラーが備わっているのだと私は感じました。

 

では、ゴッホの人生とはどんなものだったのでしょうか?

 

 

彼の人生とその物語

 

ゴッホは1853年にオランダで生まれ、若い頃は美術商として働いていました。

 

絵を安く買って高く売る。その美術商の価値観に馴染めず途中から宗教に深く関わり、宣教師としての道を歩み始めます。

 

そこでは恵まれない炭鉱夫のために身を削って人々を助けようとしますが、度がすぎる献身が宣教師仲間からの批判を買い、救うべき対象の炭鉱夫や農夫からも煙たがれる始末。

 

ゴッホは心優しい性格なのでしょうが、思い込みが強く、やりすぎてしまうところがあるようです。

 

今でいう厨二病のような人?

 

その後、27歳を迎える頃に画家を目指すようになります。

彼が亡くなる37歳までの10年間、彼の絵は一枚も売れなかったとか、一枚だけ売れたとか‥‥という話があります。

 

いずれにしろ、彼は画家としての収入は皆無だったと言えるでしょう。

では、彼はどうやって生計を立てていたのでしょうか。

 

テオドルス・ヴァン・ゴッホという彼の弟、通称「テオ」の存在が大きく、兄ヴィンセントに多くの支援をしたとあります。

 

美術商として働いていたテオは、金銭的にも精神的にも愛する兄のゴッホを支え続けてきたのです。

 

ゴッホは世間の嫌われ者です。思いこみが激しく異質な性格のため、他人からは嫌われることが多かったようです。

精神病院に入院することもあり、一般的には「頭がおかしい人」というレッテルをはられた人だったようです。

ストーカーとなってしまう事もあったようです。

 

現代でもそういう人は少なくない気がします。

優しいけどちょっとこの人ちょっと、重いなぁ‥‥

なんて人いませんか?

 

私の身近にもそんな人はいますし、私自身も少しそんな節があるかもしれません‥‥‥???

 

ですのでゴッホに対して私は、親近感が生まれて好きになったのかもしれません。

 

そんな彼の唯一無二の理解者が弟のテオだったといえます。

ゴッホが理想とした、画家仲間で共に価値観を共有して暮らすアトリエ「黄色い家」を、兄ゴッホのために借りてあげたり、画家仲間を募り、ゴッホの住む黄色い家に住まわせたりと兄の理想のためにテオはサポートを尽くします。

 

テオの奥さんであるヨハンナ・ヴァン・ゴッホ=ボンゲルは反対的だったそうですが、まあ当然ですよね。

自分達の家庭があるにもかかわらず、義理の兄に大切なお金が流れていってしまう。

そしてゴッホ当人は金銭感覚がおかしく、お金が入った途端に惜しみなく豪快に使ってしまう始末。

浮世絵660枚も美術商をやっていたテオに集めさせ、一気に全てを買い漁ったとか。

もちろんそのお金は全てテオがお支払いです。

 

なんだかゴッホよりテオの人生に興味が湧いてきました笑

 

ゴッホは思い込みが激しく、人との口論になることはよくあったそうですが、暴力に人を傷つけることはありませんでした。

 

しかしあるとき、大きな事件を起こします。

 

「黄色い家」での同居人、ゴーガンという男とのいざこざの末、自分の耳を切り落として他人の家に送りつけるという奇行に及びます。

 

この事件を機に、ゴーガンは黄色い家を出て行ってしまいました。

 

ゴッホは思いやりのある性格。その激しすぎる思いこみ、他人には届かない思いは行き場を失い、自傷行為に至ったのではないでしょうか?

 

それからのゴッホは精神病院での生活になります。

 

そこでもゴッホは多くの作品を作り続けました。

 

ゴッホの絵は稀に、空がねじれ曲がったような表現のものもあります。

精神的に病んでいれば芸術的な絵も描けそうな気もします。

ですが精神が不安定な時は決して絵を描かなかったといいます。

 

真剣に他人と向き合うからこそ、空回りし、人に対してはうまく関係を築けませんでしたが、彼は等しく自分の作品とも真摯に向かい合っていたのでしょう。

 

その後、37歳という若さで彼は人生を終わらせます。

 

死因は拳銃での自殺ということが一般的ですが、他殺という説もあります。

 

近所の悪ガキのイタズラによって起こった事故で亡くなってしまったという説です。

 

ゴッホはその悪ガキをかばい、自殺として最後を迎えたというエピソードです。

 

常識では考えられないですが、異常に深い愛を持つゴッホならあり得そうです。

 

そんな波瀾万丈な人生も含め、人々はゴッホに魅了されるのではないでしょうか?

 



ヨハンナ・ヴァン・ゴッホ=ボンゲルによる普及努力

 

ゴッホの死後、弟のテオも間も無く亡くなってしまいました。

死因は諸説ありますが、ゴッホの死で精神的な衰弱があったということは確認されています。

 

テオは兄ヴィンセントのことを心から愛していたことが伺えます。

その後、取り残されたテオの妻 ヨハンナ・ヴァン・ゴッホ=ボンゲルがゴッホの作品の普及活動に努めました。

 

なぜ迷惑ばかりかけてきたゴッホの絵を普及しようとしたのでしょうか?

 

現実的な考察に、遺産の管理や経済的な必要性が考えられます。

美術商の妻であったヨハンナであれば、作品が大金に変わるという発想はあったでしょう。

 

何より女一人で子供を育て、家庭を守らなければなりません。

そしてゴッホの作品に身近に触れていたヨハンナは、その莫大な価値に気づいていたのかもしれません。

 

それも2000点あまりの作品が残されています。

 

ですが、突然に未亡人となってしまったヨハンナ。

その時の心境は絶望的でしょう。

心のままに、作品を全て燃やしてしまってもおかしくありません。

 

ヨハンナ自身も作品に敬意を持ち、ゴッホ兄弟の深い絆を尊重していたのは確かでしょう。

ヨハンナ自身が作品でお金持ちになった記録もないようです。

 

そしてヨハンナの普及努力により、ゴッホは歴史に名前を刻む有名な画家となりました。

 



ゴッホから読み取る名作の根源

 

 

名作を作り出すには作者個人の没頭する力が非常に大切です。

その点でいうと、ゴッホは画家人生の毎日を作品に打ち込みました。

作品は売れていないにもかかわらず、毎日作品を描き続けるメンタル‥‥感心いたします。

 

私はこうして記事を公開していますが、やはり誰かに読んでほしいという欲求が生まれます。

 

そしてたくさんの人に読んでもらって広告収入がほしいとまで思います。

 

それが普通ではないでしょうか?

 

そしてゴッホが作品に没頭できたのも、弟テオの支援のおかげです。

この二人の深い絆の由来はなんなのか、とても気になりますが羨ましい限りの愛情です。

 

テオとヴィンセントの二人を含めてゴッホという一人のアーティストだと言えるでしょう。

 

そして兄弟の人生を見届けたヨハンナによる献身的な普及活動。

 

制作会社があり、それをサポートするスポンサーがいてPR会社が宣伝活動を行う。

 

このゴッホ達の行ってきたことと非常によく似ている構成ですが、ゴッホ一家には紛れもない深い愛がそこにありました。

 

ゴッホ自身の作品に対する愛。

テオの兄に対する愛。

ゴッホ兄弟に対するヨハンナの深い敬意。

 

これらには自分に対する成果を目的としていないように見受けられます。

 

私たちはこのような行動が取れるでしょうか?

 

ここまで考えると、愛こそ全て?と思うかもしれませんが、そうでもないかもしれません。

 

例えば「ネットフリックス」

作者が利益を追求し、オンライン上からのデータをかき集め、世の中のニーズに偏ったものを作る。そして名作が生まれるケースもたくさんあります。

 

名作とは 作品に対する愛情から成ったり、成らなかったり。

理論的に徹底したデータ分析によって成ったり、成らなかったり。

 

いつどこでどんな要因で生まれるかわからない名作。

 

時代背景、それに関わる人々の生活。テクノロジーの進歩。

まるで大自然のうねりの中に生まれる、無数の生命体のように思えてきました。

 

結局どのようにして名作が生まれるのかは追求できませんでした。

 

ですが私は、ゴッホの物語を参考に、今日一日という作品を愛情深くクリエイトしていこうと心に決めました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。